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zoom RSS No.B-219 〜金洲・南山の戦いと乃木大将の心象風景〜

<<   作成日時 : 2010/11/05 08:30   >>

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画像  昨年、旅順・大連を訪れ、今年も同じ時期に縁あって大連を訪れた。今回は一泊旅程が長く金州を訪れる機会があった。金州は、日清戦争、日露戦争供に戦場になったところである。金州は、旅順大連の北方にあり、遼東半島先端部を扼する部分にある要衝であった。その金州には東西600m、南北800mの長方形の金州城があったが現在は残っていない。日清戦争では、大山巌が渤海側から上陸して難なく金州を占領して旅順を包囲している。日露戦争では、1904年(明治37年)5月25日、日本陸軍第2軍奥保鞏(おくやすかた)大将が大連方面から上陸し、第四師団が金州城を攻撃したが待ち構えるソ連軍に撃退され、 第一師団からの応援2個大隊を加えた攻撃による3回目の攻撃で陥落させている。
 その後、南山のソ連陣地に猛烈な海軍による艦砲射撃による援護を受けながら攻撃を加えたが、日本が初めて遭遇するロシア機関銃攻撃により凄まじい損害を受けたが、ロシア側の弾薬払底によりロシア軍は旅順へ退却して行った。この戦闘で、乃木大将の長男乃木勝典少尉が戦死している。この南山の攻防戦では、日本はロシア側の2倍の兵力があったにもかかわらず、日本側は4倍以上の約4400の死傷者を出している。日本の兵力損耗率はロシアの8倍ということになる。第二軍はその後、弾薬の補給を受け、満州に北上した。大本営はすぐ(5月31日)に乃木大将を指揮官とする第三軍を編成し、旅順へ派遣する。
 日露戦争で乃木大将は、南山の戦いで長男勝典、旅順203高地攻防戦で二男保典を失っている。乃木大将は、武人としてよりも、文人として才能が勝っているように思える。明治10年の戦役では、田原坂で連隊旗を薩賊に奪われ死に場所を得たいとと望んでいたといい、旅順攻落に手こずり国民から非難が殺到し解任を求められ、世論に応じれば自決しかねないところを明治天皇が押しとどめたともいわれている。いずれも、乃木が明治天皇崩御に際し殉死した理由に挙げられるであろう。 その“文人”乃木は、長男勝典が戦死した金州郊外の南山戦場を訪れ「乃木三絶」と呼ばれる詩の一つを詠んでいる。


山川草木轉荒涼  (山川草木 転(うた)た荒涼)
十里風腥新戰場  (十里 風腥(なまぐさ)し 新戦場)
征馬不前人不語  (征馬前(すす)まず 人語らず)
金州城外立斜陽  (金州城外 斜陽に立つ)

 金州郊外南山古戦場には日本が立てた石碑が建てられていたそうだが文化大革命の時破壊され、現在はその土台の残骸が残っているだけであった。石碑は、存在しているが公開されてはいない。その古戦場は雑木林になっていて、渤海、金州市街を俯瞰することは出来なかった。南山古戦場にはロシア兵の立派な慰霊碑が立っており、周囲も整備されているのに対し、日本の史跡は荒れ放題で日中、中ロの昨今の関係を如実に表しているようであった。感受性の強い乃木大将は、長州出身であるがゆえに陸軍軍人として過酷な運命に翻弄されたが、もう少し早く生まれて松陰先生に出逢っていたら、経綸の道へ進むように諭されたであったのではないだろうか。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
また、そう遠くない将来中獄の政体・情勢がガラリと変われば
日本人慰霊碑が立派に整備され、露西亜墓地が草茫々になるかもしれませんね
ソ連だって80年代に「ソ連は崩壊する」と分析・主張してた人達がいましたが、反共右翼とレッテルを貼られ変わりモノのキ印扱いでしたからね
 
2012/05/04 21:18

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