No.B-247 ~吉田松陰はなぜペリー暗殺を試みたのか~

画像  「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
  上の句は、安政元年(1854年)、ペリー艦隊が日米和親条約締結のために再度日本に来航した際、下田沖に停泊中、吉田松陰が旗艦ポーハタン号に押しかけ乗り込み、幕府に捕まり江戸に護送中、忠臣蔵で有名な赤穂四七士が眠る泉岳寺前を通りかかる時に読んだと言われている。松陰がポーハタン号に押しかけたのは、アメリカに密航しようとしたためだと一般的に言われているが、実はペリーを暗殺するためではなかったのかという疑念は捨て去ることはできない。
  私は、父の出自や岩国に居住した生い立ちから、長州にはただならぬ関心を持っていた。我が故郷、錦帯橋で有名な岩国は、関ヶ原の戦いで、吉川広家が東軍家康につき論功行賞で防長二州を封ぜられるところ、西軍三成に担がれた本家毛利家に譲り改易を免れた歴史を持つ。そして幕末を迎え、関ヶ原の恨みも絡み、長州は討幕に立ち上がったのである。  長州の偉人吉田松陰は、私も心から尊敬する偉人である。その印象はあくまでも怜悧沈着で物静かな学者といったイメージであるが、一方では非常に激しい激越な狂気も持ち合わせていたようである。彼は、自分のことを「二十一回猛士」と号していた。七たびどころか二十一回生まれ変わっても国に猛々しく報いると読めるが、多分その気持ちもあったであろう、松陰は実家の姓、杉の字を十、八、三に分解しそれの総和の二十一、養家の吉田を分解して十、一、口、十、口で二十一回と読み替えるという説もある、しかし真意は分からない。
  吉田松陰は、机上の学問でなく実践の学問を常に説き、自ら文字通り実践していたが、その行動は松陰のイメージとはあまりにかけ離れていた。肥後の親友宮部鼎蔵と東北旅行に藩から道中手形を出してもらえず脱藩したり、日米通商条約を無勅で締結したとして激怒し、老中間部詮勝暗殺を計画したが久坂玄瑞、高杉晋作らに反対され藩に自首して安政の大獄で江戸送りとなっている。そして、もう一回の猛が、ポーハタン押しかけ乗り込みである。このことは後ほど触れるが、松陰ほどの碩学がどうして子供じみた軽挙妄動とも思われる行動を繰り返すのか、どうしても理解できないのは私だけであろうか。東北旅行のことぐらいで士籍を剥奪される重罪である脱藩を犯すのか、師ともあろうものが若輩の弟子、久坂や高杉に反対されるような暗殺計画を持ちかけ態々自首するとか、松陰の言う額面通りなら外国密航という重罪を後先考えずに犯すとはとても吉田松陰のイメージからは想像が出来ない。
  文頭の句は、「こんなことをすればこうなるとは知りつつも、国士としてやらないわけにはいかなかった」と心情を詠ったのであろうが、「こんなこと」は、ペリーを暗殺して攘夷の魁になることであった。あれだけ、尊王攘夷を叫びながら、夷狄にチョボを振ってノコノコとペリーの船でアメリカに連れて行ってくれとどの面下げて言えるであろうか。宮部の文書に、酒の席で猛々しい形相で刀を振り回し、ペリーを刺すと騒いでいたらしいと書き残しているが、勤皇僧月性は、朱書きでその文書に“荊軻”になるのかと朱書きしている。荊軻とは秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗し、殺された刺客である。松陰は、暗殺のためにポーハタン号に乗り込むとき、親友の宮部鼎蔵に打ち明け、宮部は刀を交換してその勇気をたたえたという。実際には、米国渡航を依頼するという口実にペリーに面会を求めたが、通辞のウイリアムズに追い返され目的を果たせず、宮部に累が及ぶことをさけてアメリカ渡航を企てたと言い張ったのであろう。しかし本懐を遂げられなかったとしても、吉田松陰が維新回天の偉業に果たした役割を毀損するものではない。寧ろ暗殺を企てたほうが松陰らしい生き方だと思う。
吉田松陰の辞世、
「身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

この記事へのコメント

二十一回猛士の説
2015年05月01日 07:15
二十一回猛士の二十一回が杉と吉田にちなんでいることは、そう読み替える説があるのではなく、松陰自身が「二十一回猛士の説」で書き残していることですよ。

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