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zoom RSS 〜項羽と劉邦の戦いに見る人生の教訓〜

<<   作成日時 : 2016/02/21 18:51   >>

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画像 中国最初の統一国家秦を滅ぼして天下の覇を競った両雄項羽と劉邦の戦いは人生に多くの教訓を与えている点で私には非常に興味がある歴史だ。項羽と劉邦は70回以上干戈を交え、項羽はすべて勝ちながら最後戦いで敗れ自刎して滅んだ。この二人の戦いの中で、今日の日本には熟語や成句として鴻鵠の志、左遷、指鹿為馬、乾坤一擲、国士無双、背水の陣、四面楚歌、捲土重来、韓信の股くぐり、抜山蓋気、などこれらにまつわる非常に多くの逸話がこの二人が関わる時代に見られる。この中のいくつかを織り交ぜて歴史を振り返ってみたい。
項羽と劉邦が天下の覇権を争ったのは紀元前200年代末期で秦の始皇帝の没後、の反秦暴動の勃発を機にしている。まず秦に反旗を翻したのが「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」との若い頃の逸話で知られる陳勝と呉広による紀元前207年の反乱を機に秦に滅ぼされた六国のあちこちで反乱軍が蜂起した。その中でも楚で兵を挙げたのが項羽と叔父の項梁である、項羽らは挙兵のシンボルとして楚皇室の血筋を見つけ出し楚の義王(仮の王)、懐王を仕立て上げ秦の首都咸陽を目指す。この項一族の挙兵に参加したのが沛の無頼漢劉邦が集めた部隊である。懐王は咸陽に一番乗りした者を関中(咸陽のある国)の王にすると宣言する。項羽は咸陽を北から、劉邦は南から進撃する。叔父の項梁が定陶で戦死したものの項羽は途中鉅鹿で秦軍の主将章邯率いる主部隊を退けた後咸陽に向かう。劉邦は先に咸陽に入城し前206年秦帝国は秦王子嬰が劉邦に降伏し、秦は滅ぶ。劉邦は咸陽を制圧して咸陽の東の入口函谷関を閉ざすが、項羽はものともせず函谷関を蹴破り関中に入り、何故締め出したのかと劉邦を詰問するが、劉邦は「鴻門の会」で弁明し一命を取り留める。項羽が大軍に成長していたので劉邦は項羽に従ったが、項羽は懐王の約束を無視、約束を反故にして劉邦を関中の王にせず、西の辺境の僻地漢中の王に論功する。このことが地図上関中の左に漢中が位置するため後世「左遷」という言葉が使われるようになった。この左遷の遺恨が項羽と劉邦が戦う楚漢戦争の原因となったのである。
 ここで項羽と劉邦の性格を比較してみよう。二人が反秦連合軍に参加した当時項羽は20代半ば、劉邦な40代半ばで20くらい年が離れていた。項羽は貴族を出自としているが、劉邦は街の兄ちゃん、無頼であった。項羽は膂力、知力に優れたプライドの高い偉丈夫だが人の意見を聞かず自分の判断に絶大な自信を持っていた。劉邦は、明けっ広げの憎めない性格で誰からも好かれ、人の話をよく聞くので劉邦の行くところはいつも人が集まったという。叩き上げのおっさんで失敗を気にしないため雑草のように打たれ強いが、項羽は失敗をしたことのないエリートで挫折には脆かったと思われる。
 二人は70回以上戦い何回戦っても劉邦は負け続けるが、兵が逃げないのである。項羽は冷酷で義王を殺したり、投降した秦の兵卒20万人を生き埋めにするほどの残酷さで、手柄を立てても野心を疑われ、失敗しても粛清されるため次第に人材が去ってゆき兵力が減っていく。前204年の榮陽(けいよう)の戦いで劉邦は例のごとく項羽に負けたがなんとか脱出し、補給を受け態勢を立て直し広武山に布陣して項羽と対峙したが前203年、劉邦は父親や妻を項羽に人質にされており、項羽は劉邦の部将に糧道を断たれ兵糧が尽き、双方が戦いあぐね国土を鴻溝を境に東西二分する和議を結びそれぞれの根拠地に帰っていった。しかし劉邦は謀臣張良の今しか項羽を討つ機会はないという意見をいれて約束を踏み倒して項羽を追撃する。この追撃でシーザーがルビコン川を渡ると同義の鴻溝をわたる一世一代の賭けを唐代の詩人韓愈が「一擲乾坤を賭すを成す」と詠みこのことから人生で重大な決断をするときなど「乾坤一擲」という言葉が使われるようになった。しかし、追撃に最強の武将韓信が合流せず劉邦は例のごとく項羽にまた返り討ちに合う。この韓信の若い時の逸話が韓信の股くぐりである。大事を前に小事にこだわらず一時の恥辱を忍ぶ意味だが、この逸話に触れることは紙面上冗長になるので割愛する。韓信は戦下手の劉邦のために丞相蕭何が、国中二二人といない逸材「国士無双」と強く推薦した漢の総大将である。韓信は遠征途上趙を攻める井陘(せいけい)の戦いで、わざと兵法の常識を無視した川を背にした陣を敷き趙軍を欺き油断させ僅か3万の兵で20万の趙軍を壊滅させた故事から退路をたって戦うことを「背水の陣」と呼ばれるようになった。このあと、参戦を惚けた韓信に、劉邦は張良の知恵を受け入れ韓信を斎王に任じることを約束して再度項羽を攻める。恩賞の沙汰に韓信と彭越が直ちに現金に反応して項羽を垓下(がいか)に誘い込み追い詰めた。何回戦っても負け続ける劉邦の60万の大軍が常勝の項羽10万の軍勢を包囲する。緒戦の彭城の戦いで3万の兵で劉邦が56万の兵力で負けたトラウマから簡単には勝てないと思い、これまた張良の策を容れ包囲した漢軍に、夜中に楚の歌を唄わせ戦意を挫く戦略に出る。それを聞いた項羽は「なぜこんなに包囲軍に楚人が沢山いるのか、楚は既に劉邦に落ちたのかと絶望し、虞姫(虞美人)と最後の宴を張る。虞は足手まといになるといって自殺した。項羽の兵も逃げ、項羽は夜陰にまみれて残った800騎で包囲を抜け脱出に成功する。このときのことが、誰も味方がいなくなることの意味の「四面楚歌」として後世に語り継がれている。虞が自決した跡に赤いひなげしの花が咲き乱れたという、以来ひなげしのことを「虞美人草」というようになった。
 垓下を南に脱出した項羽は生まれ故郷の江東に向かうが、揚子江左岸鳥江で5000騎の追手に追い付かれ、乱戦の中で奮戦したあと自刎して果てる。鳥江の亭長(宿場役人)は、船が用意してあるので揚子江を渡って江東の王となり、の若い逸材を集め再度再起を図ったらどうかと自決の翻意をこころみたが項羽は、「8000人もの若者を故郷から連れ出したが誰ひとり連れて還ってこられなかった、なんの面目があって今更再起を図れようか」と言って最後に残った27名とともに追手に立ち向かっていったという。たった一回の負けで命を絶った項羽の死を惜しんだ唐代の詩人杜牧が詩の中で
 江東師弟俊才多し 捲土重来未だ知らず
と詠んだことから「捲土重来」という言葉が使われ始めた。捲土重来とは、一度は敗れたが態勢を立て直し勢いを増して、兵馬軍勢が土煙を巻き上げながら再び戻ってくる様のことである。
 優秀で連戦連勝の項羽に対し、大雑把で連戦連敗の劉邦が70回位以上負け続け最後に一回勝って前漢後漢合わせて400百年の漢帝国を築き上げたのは、劉邦の人間的魅力、人の話を聞く、義を通す、本人が意識しない「徳」があったのであろう。劉邦は自分が才智において凡庸であることを自覚し、蕭何、張良、韓信という三傑の意見を容れ彼らに支えられて大事をなした。一方項羽は個人的能力は、はるかに劉邦に勝るが、唯一の謀臣范増にも去られただひとりの唯我独尊、冷酷、部下を信用せず人の話を聞かないことが破滅を導いたと思われる。それを項羽の若さゆえの未熟さといえばそれまでだが、統治経験のないまま秦帝国を引き継いだことはあまりに代償が大きすぎた。また指揮官として見れば、近代では主流である心服統御の劉邦と戦前の日本軍のやり方のような威圧統御の項羽との違いがその結果がよく示している。戦下手劉邦を勝利に導いた最大の武勲者は韓信であるが、韓信も晩年逆意を疑われ弑逆される、まさに「狡兎死して走狗烹(に)らる」である(このことわざは本来春秋時代呉越の戦いの話)。とはいえいろいろ人生に示唆を与える項羽と劉邦の戦いであった。優れた凡人家康と天才独断の信長の違いを劉邦と項羽に見るのは私だけであろうか。

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