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zoom RSS 〜ヤマトタケルのロマンと房総半島〜

<<   作成日時 : 2016/10/03 11:03   >>

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画像   私の住む房総地域はヤマトタケルにまつわる地名や伝説が多い。ヤマトタケルは12代景行天皇の第二皇子で古事記では倭建命、日本書紀には日本武尊と表記されている。もっとも景行天皇は西暦で言えば100年ころで大和朝廷は無論のことヤマト王権も成立していないはずだろう。3世紀の卑弥呼さえ古事記日本書紀にも言及がないくらいだから尚の事でもある。
  古墳時代は3世紀から6世紀ごろまでとすれば、この期間は各地に豪族がそれぞれの支配圏を持ち、その勢力を誇示するために古墳が作られたとすれば、その豪族を統一する権力は無かったと見るのが妥当であろう。やがて古墳時代の後半になって、有力豪族の合従連衡が進みその中の大王(おおきみ)が全国(西国と東国)を統一しヤマト王権となり、さらに大和朝廷が形成されて行ったと理解するのが自然だろう。
  日本書紀、古事記は700年代に編纂され口伝をまとめたもので、それこそ神話に過ぎないが、それはそれとして民族の共通認識として古代のロマンを楽しみたい。古事記日本書紀で最大のイベントは何と言ってもヤマトタケルの熊襲建・出雲建征伐と東征である。ヤマトタケルは、景行天皇の長男大碓皇子を素手で捻りつぶしたことに恐れをなし、熊襲征伐に行かせて遠ざけた。ヤマトタケルは熊襲兄弟を平らげて帰り途出雲健も退治して帰ると、今度は蝦夷征伐に東国に行けと命ずる。父は私に死んでほしいのかと叔母の倭姫命に不満を漏らしながらも東征に出かける。
  叔母の倭姫命から「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ:のち草薙の剣)を授かり東国に赴く。途中駿河あたりで叛賊国造(くにのみやつこ)による火攻めに会い天の叢雲剣で周りの草をなぎ倒して難を逃れたことから爾後「草薙の剣」と呼ぶようになった。その焼打ちに遭ったところが現在「焼津」と呼ばれている。しかしもう少し東の清水市日本平もヤマトタケル(日本武尊)が火攻めに遭った場所とされ、草薙神社、草薙と言う地名もある。わたしも、仕事で焼津に居たし日本平の草薙神社も参ったがどちらがその場所か確信はない。日本書紀は駿河を火攻めの焼津(やきつ)としているが、古事記では相模から上総に渡海する前に相模の国造の姦計で焼遺(焼きつ)で焼き打ちにあったとされ、走水(浦賀水道)渡海でヤマトタケルの妃弟橘姫が海神の怒りを宥めるために生贄に入水した時の辞世の和歌に「さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも」とある。当然、日本書紀には弟橘姫の和歌の記述は無い。相模の小野は相模小野が大野に転じた可能性もあり厚木市小野が古事記で言う「焼遺」(焼津)とする説もある。すぐ近くには大和市があり草薙に似た草柳と言う地名もある。大和市がヤマトタケルから来ているとは言えなくとも相模武蔵あたりで火攻めに遭った可能性がある。
   三浦半島から走水渡海中嵐に遭い、弟橘姫の犠牲で何とか無事上総に渡った際、弟橘姫の袖が流れ着いたところが袖ヶ浦であり、富津にも衣が流れ着いたのか「布流津」と言われ後の富津の語源ともいわれている。ヤマトタケルの上陸地木更津はヤマトタケルの和歌「君去らず 袖しからみに立浪の その面影を見るぞかなしき」から木更津と呼ばれるようになった。この木更津は東京国際空港滑走路33への最終計器進入着陸経路で年中上空を飛んだところで思い出深いところでもある。ヤマトタケルが上総に上陸したのち九十九里平野を通るか、海路九十九里沿岸に寄港した形跡がある。古事記と日本書紀では東征経路が若干異なるが、いずれにしても九十九里地域をヤマトタケルは通過している。私の近くの茂原市本納に橘樹神社があり、ヤマトタケルが海岸で拾った弟橘姫の櫛をうめて墳墓を作らせたとされている。日本書紀では倭建命が海路玉浦を横切ったとあり、玉浦とは九十九里の海を指し、玉浦に因んだ玉崎神社、玉前神社が九十九里周辺にそれぞれ複数個所現存している。飯岡の助五郎の碑と力石がある玉崎神社もその一つであり、景行40年ヤマトタケルが海上平安、夷賊鎮定を祈願して海神の娘である神武天皇の母玉依姫命を祀ったとしている。そんな古墳時代よりも古い時代に神社が創建されたとはとても信じられないが、まあ、あけて通すしかない。
  ヤマトタケルはその後東北の蝦夷を平定して帰りは陸路をとり、足柄坂(足柄峠)で東を振り返り、亡き妻弟橘姫を偲んで「吾妻はよ」と3回さけんだという。以後足柄坂の東、坂東(ばんどう)を吾妻「あずま」さらに東をあずまと呼ぶようになったという。因みに現代では箱根の関所を境にして東を関東と呼んでいる。弟橘姫を祀った吾妻神社や妻恋神社が木更津やその他各地にたくさんある。これが日本書紀では足柄坂ではなく、群馬県の碓氷峠とされており、ここでも「吾妻はや」と亡き弟橘姫を恋しがったとされ、キャベツで有名な現在の嬬恋村の地名由来とされている。碓氷峠を境にしてこちらも東を「あずま」や坂東と呼ばれるようになったというが、弟橘姫が入水した海の見えない坂東や吾妻(東)は今一つしっくりこないと思うのは私だけだろうか。余談だが、碓氷峠はヤマトタケルの本名小碓命(おうすのみこと)から名づけられたものだと思っている。
  ヤマトタケルはその後伊吹山で荒ぶる神を退治に草薙の剣を後妻の宮簀姫(みやすひめ)に預け、丸腰で出かけ負傷し、大和に凱旋することなく伊勢の能褒野(のぼの)で崩じた。望郷の念を「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭しうるわし」と遺している。 草薙の剣は宮簀姫の卜定により熱田の地に祀られ、以後今日まで熱田神宮にご神体として保管され、天皇家の三種の神器の一つとして熱田神宮へ伊勢神宮に次ぐ社格と尊崇与えている。日本の最初の征夷大将軍は倭建命と言うことだろう。倭建命は天皇にはならなかったが子供が仲哀天皇である。

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