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zoom RSS 〜幕藩耐性を終わらせた阿部正弘と堀田正睦〜

<<   作成日時 : 2017/06/24 21:20   >>

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画像  地域で所属する団体の催事で、幕末に老中首座を務めた堀田正睦の佐倉11万石の史跡を訪れた。幕末の悲運の老中首座堀田正睦の足跡が辿れるかと思っていたが、それは無かったことが残念だった。沢山の堀田家ゆかりの歴史観光スポットはあるが、とくに堀田正睦本人に関するものは見当たらなかった。堀田邸なるものがあったが明治に建てられた正睦の嫡男正倫のものであった。なぜ堀田かと言えば、幕末史を見るときは薩長中心にみる場合と、幕府側から見る場合にいずれの側にも歴史のターニング・ポイントがあり、堀田がそれに関わっているからである。幕府側から見た場合、老中首座を堀田正睦に譲った安倍正弘と譲られた堀田正睦によって幕府は終ったようなものだった。
  江戸時代には三大改革があり、寛政、享保、天保の三改革が有名だが、阿部正弘の安政の改革は幕府260年の歴史の中では最も幕政の変化をもたらしている。それは、幕政が徳川宗家と譜代大名の鉄板の体制を阿部正弘が叩き壊したからに他ならない。歴史と伝統を誇るトヨタ自動車のような大会社が、経営に無関係の親戚(親藩)と経営に口出しできない子会社(外様)が本社の経営陣に口出しを始めるようになったようなものである。徳川幕府は宗家と譜代大名のものであり、その権益はだれも触れることは許されなかった。たとえ親藩でも一家臣に過ぎず特別扱いはない。それを福山藩主阿部正弘が安政の改革で、外様の島津斉彬やうるさ型の烈候と言われる親藩の水戸斉昭など埒外の大名を参政させ、身分門閥を超え有能な人材を登用して国難に対処した。
  日米和親条約が締結されるとさらなる日米修好通商条約の締結を米公使ハリスを通じて強要されることを予期し、阿部は水戸斉昭、幕府条約反対派や朝廷攘夷派の風よけに堀田正睦に老中首座を譲っていたのである。阿部にしてみれば気配りの出来る凡人年長の堀田に首座は譲ったが、実権は阿部が握っていた。堀田正睦は元の名は正篤であったが篤姫が家定に入輿すると、篤姫に遠慮して正睦(まさよし)と改めるほど遠慮深かった。1857年阿部は39歳の若さで急死しており、堀田は自分一人で何とかしなければならなくなった。この条約には、幕政に口を挟むようになった水戸斉昭が猛烈に反対し、他の反対派も含めて堀田は対応に困り果てた。堀田は、朝廷の勅許さえあれば反対派は黙るだろうと思い、川路聖謨らをつれて自ら亰へのぼり、孝明帝の勅許を求めた。うるさい大物公家にいつものように金を握らせれば何とかなると考えていた節がある。しかし、夷狄嫌いの孝明帝に加え、多数の公家の反対に遭い勅許ももらえず堀田は江戸へ追い返されたのである。大失態である。堀田は阿部正弘の真似をして、事が大きくならないように水戸斉昭が納得する越前の英明君主松平慶永(のちの春嶽)を大老に据えようとし、さらに当時持ち上がった将軍継嗣問題では紀州徳川慶福を推す南紀派でありながら、水戸斉昭に取り入るように斉昭の七男一橋慶喜を推す一橋派に転向した。しかし、大奥の言いなりで脳障害の疑いのある将軍家定の決済は、多分慶喜が大奥に“豚一”と嫌われていたためか、南紀派の井伊直弼を大老に任命したのであろうと思われる。それほど大奥は将軍継嗣には発言力があった。
井伊は大老に就任すると、懸案の日米修好通商条約を朝廷の勅許なしに締結したのである。これに怒った孝明帝は、260年の慣例を破り、幕府を通さず異例にも将軍家の一家来に過ぎない水戸家に幕府を弾劾するように密勅を送ったのである(戊午の密勅)。こんどはこれに危機感を持った井伊直弼は攘夷派、と坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなって、水戸斉昭親子と島津斉彬や山内豊信(のちの容堂)の西国雄藩松平慶永など、阿部正弘が登用した人材を徹底的に弾圧し、恐怖政治を行った(安政の大獄)。本来、堀田正睦は蘭方医の順天堂を支援するほどの蘭癖(西洋かぶれ)と言われる開国派であったが、途中で水戸に取り入ろうと将軍継嗣問題では一橋派に転向していたため譜代で開国派でありながら直弼に処分され失脚する。蛇足ながら、安政の大獄で謹慎処分を受けた松平慶永、山内豊信は隠居し、それぞれ「春嶽」、「容堂」と号したが、井伊直弼暗殺後復権する。島津斉彬は、安政の大獄で処分される直前病死している。
  堀田が幕末に、登用され失脚するに至った過程を概略記したが、幕府側から見て幕府が亡んだ要因が阿部正弘と堀田正睦にあるといえるその理由は、阿部が幕末の賢候と呼ばれる水戸、越前、薩摩、土佐、伊予の藩主の意見を取り入れる安政の改革を行ったこと、堀田が二つの藪蛇、一つは態々慣例を破り勅許を求め、孝明帝に朝廷の政治的権力をあらためて認識させたこと、もう一つは阿部の真似をして一橋派の有能ではあるが松平慶永を大老にして風当り避けて自分は逃げようとしたことである。これらによって井伊直弼が大老になり、暗殺されるや幕府の権威は失墜し、政治の中心は江戸から亰へ移ったのである。後は公武合体しなければ幕府は立ちいかなくなり、それでも回天のモーメンタムは明治維新へ突き進んでいったのである。

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