~幕末最大の悲劇二本松少年隊と二勇士の戦い~

画像  私の兄の知人の祖先に山岡栄治という奥州二本松藩の武士がいるという話を聞いた。私は長州出身なので、戊辰戦争には以前から興味があった。戊辰戦争最大の攻防は朝敵会津藩を扼する奥州の要衝白河城及び二本松の攻略であった。二本松藩は、丹羽長秀を藩祖とする名家であった。豊臣秀吉が木下藤吉郎から羽柴秀吉と名前を変えたのは、織田信長から有力武将の丹羽長秀と柴田勝家の武勇にあやかれと言われて羽柴と名乗ったことからも分かるように丹羽家は戦国時代からの名家であった。     
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は、徳川慶喜の江戸への遁走と官軍へ恭順で幕府の官軍への抵抗は彰義隊の壊滅でほぼ終わったが、朝敵の会津を討伐しなければ薩長の幕末は終わらない。しかし、敗れたと言え幕府側の潜在戦力は無視できず、官軍が日本を統一するには、やたらむやみに討伐するには大勢が整わず、早々と官軍に恭順した奥州の大藩仙台藩に会津を討伐させようとした。そしてその督戦に奥州鎮撫総督府をおいて長州周防大島出身の世良修三らを派遣したが、仙台藩は恭順したものの会津を討つことは気が進まず、会津救済嘆願をするが世良が嘆願を拒否したため、世良が横柄だとか傲慢だとかトラック一杯の理屈をつけて福島の金沢屋に投宿していた世良を暗殺して阿武隈川に投げ捨てた。このことによって、仙台藩は官軍恭順から奥羽越列藩同盟を結び官軍に抵抗する道を選び、奥州の悲劇が始まった。白河城の攻防は慶応4年閏4月20日から7月14日に掛け3ヵ月近く続き、二本松藩はその後の会津藩以上の悲劇が待ち受けていた。四月旧幕府伝習隊を率いる大鳥圭介らの宇都宮城の一時的占領が過大に伝えられ、「これはいけるかもしれない」と奥州諸藩は判断を誤った可能性がある。
 白河城は奥羽鎮撫総督府参謀世良修三の命で仙台藩などが会津討伐の根拠地としていたが、世良が殺されると会津藩に奪取された。しかし5月1日の猛攻で官軍が奪還し官軍は最後まで寡兵にも拘らず白河を守り抜いたのである。二本松藩の藩主奥方は早々と官軍の軍門に降った大垣藩から入輿しており、官軍は簡単に降伏すると考えていた。二本松藩は一時は降伏も考えたが結局、二本松城の守将家老丹羽一学の徹底抗戦論に押し切られ老若男女城を枕に討ち死にする道を選んだ。
  二本松藩は、精鋭ほとんどを白河奪還に派遣していたたため丸腰状態であったが、白河と二本松の間の三春藩と守山藩が官軍側に転んだため二本松兵は退路を断たれ戻れず、二本松を守るために年端もゆかない12、3歳児が急遽出陣を許されたのである。「入れ年」という制度で子供の年齢を2歳繰り上げて出陣させたのであるが、子供たちの強い要請だったという。子供まで出陣させなければならない状況は進退窮まったということで、戦局が好転するわけでもなく藩の判断は理解に苦しむ。ともあれ、少年隊は木村銃太郎という22歳の砲術師範を隊長として12歳から17歳までの60余名の少年隊が7月27日一日で編成され、あまりに急すぎて「白虎隊」のように隊名さえ付いていなかった。そのうちの25名は29日に大壇口で官軍に砲攻撃を仕掛け、薩摩官軍を混乱に陥れたが衆寡敵せず、隊長が負傷し自決して介錯された隊長の首を二人の少年兵が髪で掴んで持って泣きながら退却した直後、白河から孤立無援となった二本松防衛のために帰り着いた二本松藩6番隊大筒方青山助之丞(21歳)と私の兄の知人の祖先山岡栄治(26歳)が少年たちの退却を守るように番所前の茶屋で待ち伏せし、進軍してくる薩摩の官軍の隊列に躍り出て斬り込み、瞬く間に9人を斬り斃したという。この時薩軍隊長野津道貫を負傷させている。しかし、薩軍隊長に重傷を負わせ、薩摩軍を一時的には混乱させたもののそこまでであった。通りかかった農民の目撃談によると。青山助之丞は銃弾に斃れ、山岡栄治は袈裟懸けに斬られたという。隊長の野津道貫は明治31年この地を訪れこの二人の見事な奮戦を称えて二勇士戦死の碑を建立し、次ような句を残している。     
「うつ人も、うたるる人もあわれなり、ともにみくにの民とおもえば」
なお、大檀口での戦闘で、正、副隊長のほか12歳一名、13歳三名、14歳二名、15歳二名の少年兵が戦死している。 
野津道貫と言えば後に日露戦争奉天会戦で主力の第4軍司令官を務めた陸軍大将で元帥にまでなっている。その野津道貫が後年戊辰戦争について、二本松の戦いが最も激しい戦いだったふり返っている。
  二本松は7月29日落城すると、奥州列藩同盟諸藩は浮足立ちその後会津も落城降服、仙台藩も降伏し世良を殺害して立ち上がった奥羽越列藩同盟は半年も持たず瓦解した。奥羽地方は地理的に中央から遠く中央権力が及びにくく時に反抗して亡んだ歴史の繰り返しを感じるのは私だけだろうか?ヤマトタケルの東征、坂上田村麻呂に滅ぼされた阿弖流為(アテルイ)、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏、官軍に滅ぼされた会津などに似たような歴史が繰り返されてきた。薩摩は、会津・庄内に江戸藩邸を焼かれ長州は亰で弾圧され京都守護職会津中将松平容保の会津藩はは絶対に赦せなかった。しかし、二本松藩の悲劇は何の遺恨因果もないだけに哀れを感じるが、少年隊、青山助之丞、山岡栄治などの勇士諸氏は後世に名を残し永久に郷土に歴史・観光に貢献し続けている。

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