~年号に狂騒する今日の日本と幕末の元号に思う~

画像  最近、天皇退位に合わせて改元の年号が4月1日に発表された。日本はこれまで、千年以上も漢籍を原典として来て、急に万葉集という日本の古典を出典としたというが、最近の中国の興隆、経済発展や軍事力増強に反感を持った安倍政権の保守化が垣間見える気がするのは私だけだろうか。国家主義傾向の強い安倍政権らしく「令和」とは、律令の令を連想し、政治権力の令即ち(命)令により和を保ついう今の政権の願望を暗喩するように思える。むしろ海外では、令はOrder やCommandと連想し、それを躍起になって政府は否定している。また、総理、官房長官それぞれ改元を政治利用している。とりわけ菅官房長官は北海道道知事選選挙応援で、自分を「令和おじさん」と浅ましく売込んでていたが、マスコミから急に総理候補に仕立て上げられてまんざらでもなさそうである。日本は古来、漢文や四書五経を知性の源泉として、高い治政の理想はそれらに出典を求めて来ており、何を今さら経綸の理念を情緒を謳った万葉集に求めるのか、今回の元号は現政権によるこれまでの日本の歴史や伝統の浅薄な否定でしかない。
ところで、昔私が幕末の歴史小説を読んでいつもとまどったことは、あまりに元号が頻繁に変わることであった。元号が数年短いときは2年足らずで変わり混乱した思い出がある。年号を西暦で表せば、時系列が分かりやすいが、歴史小説で「1864年6月、新撰組は京都木屋町旅籠池田屋を御用改め、、、」では感じが出ないので、やはり「元治元年六月、新撰組は、、、」とならざるを得ない、文久3年に新撰組が発足した翌年には元号が元治に変わり、その二年後には慶応になっている。一世、一元号の元号制度になったのは1300年の皇室の歴史の中では明治時代からに過ぎない。幕末と言えば孝明天皇の時代とほぼ一致するが、孝明天皇は弘化に即位し、崩御するまで約20年間の7つの元号が変わり、自分で6回も改元している。その内訳は、「嘉永」(7年)、「安政」(6年)、「万延」(2年)、「文久」(3年)、「元治」(2年)、「慶応」(4年)である。35歳で病死とされているが、岩倉具視、伊藤俊介(博文)らにに倒幕の勅許を絶対に出さない孝明帝を弑逆された可能性が非常に強い。もともと頑健な孝明帝が壮年期に病死すること自体、薩長同盟が成立し、倒幕に舵を切った直後に都合よく病死することは考えにくいからである。あれだけ尊王攘夷と大騒ぎしていた長州が大嫌いだったはずの夷狄から最新の武器を買って幕府と第二次長州征伐を戦っている変わり身の早さには唖然とするが、孝明帝も大の夷狄嫌いで倒幕も絶対反対、開港も反対では孝明帝に崩御してもらって、山内容堂の小御所会議で失言(実際は正鵠を得ていたが)の通り「幼冲(ようちゅう)の天子」を仕立てて偽勅し倒幕あるいは討幕するしかなかったであろう。
  ではだれが、孝明帝を暗殺したのだろうか。岩倉具視の毒殺説が根強い。孝明帝崩御四ヶ月前の岩倉が仕切った「廷臣二十二卿列参事件」でその要望が叡慮に及ばずそれどころか幕府贔屓の孝明帝の怒りを買い危機感を持ち毒殺を画策した可能性がある。伊藤博文も疑われている。明治帝睦仁をもと奇兵隊力士隊員で山口県田布施の南朝子孫を自称する大室寅之助と東京遷都のどさくさに紛れて入れ替えたのが伊東博文と言われている。ハルピンで暗殺された伊藤博文暗殺犯安重根は、伊藤は明治天皇の親(孝明天皇)を殺したと主張して伊藤の斬奸理由の一つに挙げていることも伊藤が疑われる理由でもある。
  しかし、戦後までは薩長藩閥権力で日本が統治されていたため、孝明帝の暗殺疑惑や明治天皇のすり替え疑惑は公にはできず話題にすることが憚られていたが現代においてはいろいろな歴史的考察が検証を試みられてている。即位当時の明治天皇は、女官に育てられたうえ、気性柔弱体躯虚弱で実に頼りなかったが東京遷都後は「別人」のように頑健で偉丈夫な天皇として明治時代を君臨している。
  最後に元号の話に戻るが、千年以上本来経綸の理念を込めてきた元号を詩的情緒で表現することは如何なものかと思い、元号と言えば幕末の元号の多さに強い印象を感じたことから孝明帝に個人的な印象にスポットを当ててみた。新しい時代の元号「令和」が平和で美しい時代であってほしいと願わずにはいられない。
  

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