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zoom RSS 〜旧約聖書と新約聖書の違い〜

<<   作成日時 : 2017/01/13 18:33   >>

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画像 外国人は世間話で、宗教と政治の話はしないと言われる。彼らにとって信仰とは神との誓約の上での信仰であり、我々日本人のように、正月は神社に参り、盆は仏様を迎え、クリスマスにはキリストの生誕を祝うと言ったいい加減さはない上、信仰が真剣で話がこじれると喧嘩になるからだという。
 今日のように文明が進んだ世界の中でさえ、西欧が1948年にイスラエルを建国させて以来、中東はいまだに砲煙弾雨の戦場に荒れるがままである。喉仏に刺さった棘のようにユダヤ国家がアラブ・パレスチナ人を苦しめているが、西欧は累卵のように危ういアラブやパレスチナを保護援助することなくユダヤ国家イスラエルを支援しアラブ諸国は荒廃する一方だ。欧米人、ユダヤ人、アラブ人;この三者に共通するのが旧約聖書である。共通の宗教文化を共有しながら宗教は地域の平和と共存共栄の術を与えることは出来ないでいる。
聖書は旧約聖書と新約聖書からなりユダヤ人の信仰するユダヤ教は旧約聖書が聖典であり、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書と新約聖書の一部(4つの福音書)及びコーランを聖典としている。この三宗教は同じエルサレムを聖地とし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は旧約聖書を共通の聖典としながら長い間対立関係にあった。もっともユダヤ教とキリスト教は2000年にローマ法王がエルサレムを訪れ、「ユダヤ教は我々の兄である」と敬意を宣言して和解しているとはいえ、イスラムは11、2世紀の十字軍の怨念もあり対立は収まらない。
 では、旧約聖書と新約聖書との違いは何だろうか。私は若いころ「旧訳聖書」と「新訳聖書」と勘違いしていた時期があったが、人によっては、旧約聖書はカトリックで新約聖書はプロテスタントのものだと思う人もいるという。旧約、新約のこの「約」は翻訳の訳ではなくて約束の約、契約の約なのである。旧約聖書は、アダムからアブラハム。アブラハムからヤコブ(イスラエル)の子孫のユダヤ人(イスラエル人)の民族の歴史であり、神を敬い戒律を守ることによって神の加護と祝福が得られることと救世主がのちに現れることの約束を預言(予言ではない)している。新約聖書はキリスト(救世主:ヘブライ語ではメサイア、ギリシャ語ではキリスト)降誕とキリストの復活を信じることによる恩寵の約束である。
 旧約聖書は特定の部族(民族)に対し、神を愛し、戒律を厳重に守ること求めているが、新約聖書ではイエス・キリストが神の子であること死後の復活を信じることで罪を許され恵みを受けるという緩やかな協約でありであり、戒律を守ることを強制せず人類全体を救済するものである。キリストは名前ではなく、イエス・キリストとは「イエス即ちキリスト(救世主)」という意味で、イエスは当時のありふれた名前であり、キリストはギリシャ語の救世主という普通名詞とのことである。
 さらに旧約聖書を概観してみよう。旧約聖書によれば、初めに神が世界を創り、アダムとイブを地上に創り不老不死の生活を与えるが、二人の神に対する背信に怒りエデンの楽園から追放し、普通の人間としての生老病死の苦難がはじまる。その後の人類の余りにもの堕落をリセットするために神は人類を淘汰するのだが、真面目なノアに神の啓示を与え、すべての生き物を地上から消し去る洪水が起こることを悟らせノアの家族と一対ずつの動物と共に方舟を作り生き残ることが出来、新たな人類の祖先となる。このノアの子孫のアブラハムが神への信仰が特に厚くその子イサクの子であるヤコブにイスラエルという名前に改めさせてヤコブの12人の子からなる部族がユダヤ人、イスラエルの祖となる。イサクの腹違い(妾腹)の兄弟イシュマールの子孫がアラブ人の先祖となる。したがって、ユダヤもアラブ人もアブラハムを祖先に持つことになる。ヤコブ後はモーゼ、ダビデ王、ソロモン王とキリストまでのユダヤ民族の歴史をヘブライ語で書かれたものが旧約聖書である。
 新約聖書の概観はキリストの出現と、民の罪を被ってその犠牲となってゴルゴタの丘で磔になり、三日後に復活するまでのことと、福音書(良いニュースの意)と教会の歴史が主な内容でとなっている。新約聖書はユダヤ人のみを対象にしたものではなく全ての人類の救済を目的にしたもので当時の国際公用語であるギリシャ語で書かれている。
 キリスト教においては、イエス・キリストは「人の子」として世の中に送り出した「神の独り子、神の子」であって、人間であり神でもある。偏見を恐れずに私見を言えば、人間としてこの世に生まれてきて死に、神として復活して昇天したことを説明するには、人間である必然と神である必然を要するのだろう。科学の進んだ現代において、キリストの復活と神を信じることは不合理である考えることは簡単だが、大抵の場合それらを否定する根拠が示されることもほとんどない。宗教という形而上の論理を構成するには想像上の概念として「神」は数学で使う虚数(複素数)のようなもので実態はないが、それがなければ論理が成立しない。ユダヤ教イスラム教もイエス・キリストの存在は認めているが、神とは認めていない。あくまでも、アブラハム、モーゼやマホメットのように神の預言者としている。
 したがって、ユダヤ教、イスラム教は旧約聖書が約束しているメサイアはまだ表れていないという立場だが、キリスト教ではイエスがメサイア(キリスト)であるという立場だ。ユダヤ教もイスラム教も今後とも今の人類が続く限りメサイアは現れることはないであろう。どんなに科学がが進んでも、人類が太陽系の外まで旅する時代になっても、人間の「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憤怒」、「怠惰」、「傲慢」、「嫉妬」を科学でコントロールできない限り宗教のレーゾンデートルは永遠に不滅であろう。旧約聖書と新約聖書は不可分にして一如ということだろう。

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