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zoom RSS 〜戦国から幕末を生き抜いた毛利家の本拠地を訪ねて〜

<<   作成日時 : 2017/05/13 19:05   >>

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画像    連休を利用して郷里の母を見舞いついでに、同行の息子がルーツを知りたいというので祖先の墓地を訪ね、先祖の出身地を歩いてみた。私の先祖は、長州の毛利家の家来と先祖の菩提寺の過去帳に記録があり、現在の安芸高田市吉田から長州萩に移り、明治に熊毛郡岩田(現山口県光市)に移り住んだものと説明を受けていた。
   毛利家と言えば、毛利元就が安芸の宮島における厳島合戦(1555年)で主家の大内義隆を誅殺した謀臣陶晴賢(すえ・はるかた)を弔い合戦と称して滅ぼし防長二国を手に入れ、さらに山陰の尼子氏とその与党をも撃滅して中国四国九州まで一代で広大な版図を広げた戦国大大名家である。その本拠地は経済交易に利便性の高い芸州広島のイメージがあるが、毛利元就が居たのは広島の狭隘な盆地高田郡吉田の山城郡山城だったようだ。城と名がついているが、平地にある安土桃山時代以降の豪壮な天守閣を備えた城ではなく、陣屋や曲輪の集合体のようなものだった。もちろん天守閣もなかったであろう。色々城を見てきたが上杉謙信の居城、春日山城をすぐ連想した。やはり謙信の春日山城も急峻な山にへばりつくように陣屋が点在していて城と言うより陣屋の集合体であった。
  郡山城は標高390メートルの放射状に山稜が広がる地形を利用しており、我々が採った城山登頂コースの途中に毛利一族の墓、元就、隆元の墓があった。そこまで車で行くことが出来るが、そこから徒歩で約30分で頂上の本丸跡にたどり着くことが出来る。本丸であって、天守閣跡ではないことで山頂に天守閣が聳えていたわけでない事が想像できる。しかし、戦国の勇、毛利元就、上杉謙信の大版図から考えればいかにも質素すぎる本拠であり、城であった。毛利元就、隆元の墓には毛利家の本姓が大江氏であることを示す、大江朝臣毛利元就、隆元とそれぞれ刻んであった。大江氏の本姓は源氏と思っていたが、大江氏自体が公家の本姓であって意外な誤解であった。毛利家は武家出身ではなく公家が武家になった家系だった。もっとも、武家は源平姓だけでなく藤原、橘を本姓とする武家はいくらでもいる。
  広島城は毛利元就の孫輝元が、開けた広島の地に1589年に築城したが完成は1599年といわれ1600年の関ヶ原の戦いで、西軍総大将に担ぎ上げられ、家康に敗れたため折角建てた城も築城間も無く取り上げられている。家康に内通した元就の子吉川広家の拝領地本家譲渡で取潰しは免れたものの120万石から38万石に減封され、安芸高田郡山城の120万石の家臣団全員の面倒を見れず、萩には付いてくるなと棄民され、大半の家臣は現地で農民に帰農したという。上杉家が、関ケ原敗戦後やはり会津120万石から米沢30万石に減封されたときリストラすることなく家来全員を引きつれて米沢に転封したことと大きな違いがある。上杉景勝には直江兼継という至宝の重臣が居たが、輝元には傑出した股肱の臣は見当たらない。毛利輝元も、広島城を築いても本拠地の郡山城は有時のために残していたようだが、萩転封には高田、広島から一斉に移動したと思われる。
  息子の居住地域である神奈川県厚木市に、「毛利台」という行政上の地名が残っている。ここは鎌倉時代、毛利庄と呼ばれた御家人領地で、鎌倉幕府開闢の功臣大江広元の子大江季光が領有して名前を毛利季光としたことに毛利家の歴史が始まる。鎌倉幕府の北条4代執権体制に三浦泰村が武力対立(宝治合戦1247年)し、三浦家に与した毛利家も滅ぼされたが、只一人越後佐橋庄に地頭と出向していた季光の子経光が難を逃れ、経光の子時親が毛利家の領地のである安芸高田の吉田の庄に分家して移り住んだのが後の毛利元就を輩出することになる毛利家の源流となった。
  私の先祖は、関ケ原の敗軍の将毛利輝元の転封で帰農することなく萩に移り住んだ。城のない防長への転封で、新たな築城地を大内家の築いた西の小京都といわれる山口にしたく、輝元は幕府の嫌がらせを考慮して、第一希望萩、第二希望防府、そして第三希望を山口にしたところ、幕府は見抜いていたかどうか分からないが一番不便な萩を指定したという。後知恵と言われようが、第一希望宇部、第二希望防府、第三希望を海から遠い山口にすべきだったであろう。おかげで参勤交代には国境の岩国に出るまで10日もかかったという。
   ここまでで、なぜ厚木から毛利が消滅し、いかにして安芸高田に毛利が土着し、安芸高田からなぜ萩に移ったかが息子も理解できたようだった。そして我家の出自は、安芸高田まではさかのぼることが出来たが、本姓は墓の標記に源氏末孫の記載があるが詳しくは確認不能だった。御多分に漏れず明治以後、家禄を失い没落し資料も散逸しているため詳細は知る由もないが、名のある家臣に繋がる家系でない事は確かであろう。とは言え、最後に毛利家発祥の地を標す厚木市の史跡をおとずれて毛利家と先祖の足跡の一部を辿った旅は終わった。
   毛利家は毛利元就が一代でブレークしたのは元就が傑出した策謀化家だった故とおもわれる。兵は奇道なりを実践し厳島合戦では2万の陶軍に3千余りの兵で勝利し、毛利と両川(吉川、小早川)に分散させた三人の息子隆元、元春、隆景に三本の矢の訓えを授けた逸話が語られるが、後世に元就の遺徳を称えるために創作されたという説もある。とはいえその分家がなければ毛利は存続し得なかった。毛利家とは毛利元就がすべてであった。幕末に、長州が幕府を倒す原動力となったのは、関ヶ原の恨みつらみがあったであろう、毎年正月には、重臣が「殿、今年はいかがでございましょうか?」と問いかけ、藩主が「まだ尚早じゃ」とやり取りするのが毛利家の習わしであったという、もちろん倒幕のことである。

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