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zoom RSS 〜近代日本の父、最後の幕臣小栗上野介〜

<<   作成日時 : 2017/08/13 20:26   >>

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画像 この夏、北軽井沢から碓氷峠を経由して薬師温泉に向かう途中、偶然幕末の幕府官僚小栗上野介忠順(ただまさ)の墓を見つけたので、思わず立ち寄った。墓は、群馬県高崎市倉渕町権田というところにある宗洞宗東善寺にある。いかにも市街地あるような地名だが、全く人里離れた山間地であった。
  小栗上野介と言えば、2700石の大身旗本で勘定奉行、日米修好通商条約の批准書を携え米艦ポーハタン号に便乗して咸臨丸(艦長勝海舟)と共に遣米使節として渡米、帰りはヨーロッパを周り、世界一周して日本に帰った当時としては世界情勢を知る貴重な人材であった。同じ旗本でも勝は赤貧洗うが如の軽輩旗本で小栗とは出自に雲泥の差があった。勝は「咸臨丸」艦長として小栗と共に渡米したが、折り返し日本に帰っている。小栗に対しては猛烈なライバル意識があったようだ。旧海軍風に言えば、「車引き」(艦長)と「赤レンガ組」(海軍省エリート)のような立場の違いだったろう。勝は米国で小栗同様滞留して見聞したかったがすぐ日本に帰され憤慨し、身分の差のせいと感じてこんな幕府の代は早く終わらせたいと思ったに違いない。
  小栗はあくまでも忠実な徳川家旗本であるが、徳川家よりも日本のことを考えていた。勝は貧乏を舐めつくした実利派苦労人で、徳川家に対したった41石の碌では恩もクソもあろうはずがなく、勝もまた徳川家より日本のことを考えていた。何でもかんでも利用できるものは利用し倒して這い上がろうとするよく言えば上昇志向の強い男だったと思われる。勝は41石程度の微禄の旗本から海軍奉行並に異例に出世して幕府の重職を担ったことは如何に幕府が幕末動乱期に人材が払底していたかが覗われる。小栗の不運なめぐりあわせは、勝とは反りが合わなかったこと、鳥羽伏見の戦いの一因となった薩摩の江戸擾乱に薩摩藩邸焼打ちを命じ薩摩から憎まれ、主筋将軍慶喜には対官軍主戦論を脚下されたことだろう。小栗は戊辰戦争で将軍慶喜に幕府フラン式陸軍で官軍を箱根で迎撃し、後続を駿河湾から幕府艦隊で砲撃・撃滅する様具申したが、鳥羽伏見の戦いで江戸に軍艦で慌てて逃げ帰り恭順を決め込んだ毛糸の編み物が趣味の軟弱将軍慶喜には聞き入れられず、それどころか即刻幕閣を罷免され、現在墓のある自分の領地群馬県高崎市権太に帰農し、隠遁生活を試みた。小栗の戦略を後日知った東征軍の総参謀役大村益次郎は、もし小栗の言うとおりにされていたら、自分の首と胴は離れていただろうと述懐したという。さすがに勝海舟も議論では小栗の案は尤もだと理解していたという。
  米国の海軍工廠の技術とその規模の壮大さを見て驚愕した小栗上野介は、反対を押し切って日本で初めての製鉄所を浦賀に作り、その浦賀製鉄所が後の日本の近代化を支えた海軍工廠になっている。東郷平八郎は、「日本が日本海海戦で勝利できたのは小栗さんのお蔭だ」と語っている。ほかにも日本銀行や会社の構想など多様な近代化コンセプトを提言しているが、枯れる葵の後ろ盾では実現できなかった。作家司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と書き残している。小栗の不運は続く、東山道を進軍する東山道官軍総督が奇矯な岩倉具視の年端もゆかない子倅岩倉具定、大軍監は香川敬三という勤皇志士上がりで実に判断が荒っぽく、流山で殊勝にも大人しく出頭してきた新撰組局長近藤勇も裁判もなく斬首されたように、小栗上野介も近代日本黎明期の稀有な人材でありながら、微罪のしかも冤罪でやはり裁判もなく香川らに斬首されたのである。小栗上野介については、勘定奉行の経歴やや浦賀製鉄所資金調達の連想から、下町江戸っ子で口の軽い勝海舟あたりが上州に埋蔵金を隠して徳川の再起を期しているんじゃないのとか、べらんめー調でしゃべり、それが噂になり埋蔵金目当てに浪士崩れのならず者の大集団が、小栗上野介の領邑に出没した。それを、軍事訓練を施した家中の手勢で撃退したので武装蜂起を企てていると東山道官軍総督に注進した者が居て、薩摩の敵小栗と聞いてその人物の真価もよく分からず斬首したものであろう。
  私の同行の友人が、「上野介って、あの忠臣蔵の上野介か?」と尋ねた。一般的にはそういう混同は普通の反応かもしれない。「上野介」とは名前ではなく、官位名である。上野とは今の群馬県を指し、介とは副長官、副知事のような意味だった。ここ上州上野は上総、常陸と並び、親王任国で皇族が長官を務めるため、「上野守(こうずけのかみ)」ではなく「上野介(こうずけのすけ)」となる。上野介を任官した時、忠臣蔵の敵役と同じで周囲の者が「縁起が悪い」と言ったが、本人は意に介さなかったという。
  改めてふり返ってみると、小栗上野介ほど有能でありながら移る時勢に翻弄され、真価を十分に発揮できなかった人物も珍しい。海外帰朝後、浦賀製鉄所は周囲の反対もされながらも将軍家茂の決断で実現できたが、その後は彼の才知を活かす機会は無かった。彼の考えは、正しかったとしても他人よりも二歩も三歩も先を行き、あの勝さえも付いていけなかったのではないだろうか。人に、半歩以上先のことを理解してもらうことは至難の業を要する。勝さえ反対した彼の構想する日本初の近代工業化のプロジェクトは幕府の組織力と財力がなければ実現しないという強い信念があった。たとえ幕府が倒れても日本に本格的造船所が残ればそれでよいとまで考えてのことだった。彼は、隠遁とはいえ、農業をしながら将来を担う若者に文武の教育も行おうとしたが、それを徒党を組み官軍に刃向う行為と疑われた可能性が強い。ただ大人しく、家族と隠居生活をしていれば、数年後には官軍に武力抵抗したにも拘らず榎本武揚や大鳥圭介らのように新政府に召喚され、小栗の知見を明治の新生日本にどれだけ貢献できたであろうか、残念でならない。運の悪い怜悧の小栗、運の強い胆力の勝、小栗が主戦派だったために勝が対抗して開城派になったとは思いたくないが、皮肉にもこの胆力の勝が無血開城派だったところに歴史の妙を感じざるを得ない。

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